こんにちは、中條マキコです。
今日は、「人見知りは、克服しない!治さない!で、こうして解消する」というテーマでお話していきたいと思います。
前編はこちら
前編でもすでにお話しましたが、人見知りって克服したり治したりする必要はないもの。
だって、そもそもが「他人と仲良くなりたい、繋がりたいという願いがあるからこその怖れ」なんですから。
だから、ただ単に、人見知りを「悪いもの」として、アンインストールし「人見知りって何?」みたいな、自分を「別の人格」にしようとするのは、ちょっと違うし、もったいなくないか?と思うのです。
「雲を消そうとして、青空まで消してしまわないで!」
あなたの青空の美しさ、再発見していきましょう。あなたらしい姿勢と共に♪
Let's go!
目次
人見知りとの付き合いかた
念のため、最初にお伝えしておきますが、「克服したい」というヒトは、克服という手段を選んでいいんです。
克服するのが間違っていて、克服せずに付き合っていくのが正しい、というわけでは、決してないんです。
ヒトは、全てのことについて、なにかしら自分なりの理由があって選んでいます。
それは、意識できるものもあれば、できないものもある。
そして、最高のパフォーマンスを生み出せる時というのは、肉体的にうごくのでも、思考で思ったり考えたりするのであっても、自分が納得して選んだ時なんです。
どんな立派なデータがあろうと、どんな歴史に裏付けられた方法であろうと、また、時には、動かせるはずのない常識であっても、その人の思考・信念に勝てるものはないのです。
そういった自分の納得だけは、決して手放してはいけません。
人見知りでよかったことがあるとしたら?
人見知り・内気って、実際、本当にめんどうです。
さまざまな怖れによって、自分の行動がむちゃくちゃ制限されてしまうんですから。
わたしが幼稚園の時のトイレ事件。
トイレ前で近所の友達が遊んでいて、恥ずかしくてそこを通れず、トイレに行けなかったという話なんですが、「行きたいのに行けない。。。」その時のココロの中で起こる葛藤はというと
- そこを通る自分が邪魔だと思われないか
- 何か言われたらどうしよう
- 知り合いのわたしだと、いつ気づかれるか
- その気づかれたことに対し自分は適切な反応ができるか
- 自分から先に挨拶するかどうか、するとしたらいつするか
- 自分からの挨拶に気づかれなかった時の反応はどうするか
- 出てきてから気づかれたらどうするか
- その時気軽に声をかけなかった自分はどうおもわれるか
- ずっと気づかれなかったらどうするか
- どうやったら不自然ではなくここを通れるか。。。etc.
これでもほんの一部ですが、こういうさまざまな妄想が、渦巻いて、うごけなくなっちゃう。。。
まるで自分の行動に呪いをかけるようなこの妄想、いったい何の役にたつの?と、思いますよね。
でもね。
あるんですよ。
どんなにつまんなくても、くだらなくても、回り道や険しい道を進むことになるのであっても、人は無駄なことはぜーったいしないものなんです!!
わたしが選んだ「人見知り」という武器
人は、自分で全てを選んで生まれてきた、と言われます。
私も実際、この「人見知り・内気」は自分が選んできたものだと、今では思っています。
前掲のトイレ事件、行けなかった結果どうしたのか、は記憶にないのですが、幼稚園から帰ってきてそれを報告したわたしに、母はなんて言ったと思います?
「それは仕方がなかったわね〜」って、言ったんだそうです。
人見知りな娘をこれ以上追いこんではいけない、と思ったのでしょうか。
母、ぐっじょぶ!!
これが、どう私の役に立つことだったのか?ということを読み解いてみます。
もしかしたらわたしは、この事件を通して「母に愛されている」ということを確認したかったのかもしれません。
母としては、人見知りを克服させたい!という気持ちを強く持ち、わたしもそう思われていることを強く感じていたはずです。
ということは、「克服すると喜ばれる、愛される」という状況があることがわかり、それに応えようと頑張ることで「母から愛されている」を感じるという方法もあります。
しかし、この事件のおかげで、「克服しなくても愛され、受け入れられる」っていうことを感じられています。
「そのままでいいよ」と言われているのと、同じ安心感を得ているわけです。
頑張って応えなくても、愛されていると感じられることって、子供にとって大切で安心なこと。
そしてさらに私の人生から大きくこの人見知りを見てみると、こんな見方もできるのです。
一方、母は、こんなひどい人見知りを抱えた娘を見て「この先、進学、就職、結婚を、人並みにさせるのは無理かも?」と考えました。
そして、多くの昭和ヒトケタの親ならば、当然のように持っていた「女性としての幸せという常識」。
その基準を、人見知りの激しい娘に求めることをあきらめ「社会に出て無事に食べていける」ことだけを、目標、基準としたのです。
その結果、まぁバブルの時期だったせいもあって呑気でいられたのでしょうが、デザインの専門学校へ行くこと、卒業後、就職せずにアルバイトをしながら暮らす、ということが許されました。
わたし、おかげで人生においてはずいぶんと好き勝手に生きてこれ「結婚しろ」「きちんと就職しろ」と言われたことは一度もなかったのです。
その間、もちろん持ち前の「人見知り・内気」さゆえに、ものすごく悩み、苦しいことも、困りごとも多々ありました。
しかし、その反面、同年代の女友達がさらされていた「就職や結婚、出産を、口うるさく言われる窮屈さ」からは逃れられたのです。
これは、大きなメリットと言えるのではないでしょうか?
自分が生まれる前に選びとった「武器」とも言えるのではないか、とさえ思えるのです。
「人見知りで困る」それは、物事の一面でしかないのですね。
何か起きることが100%、マイナスでしかない、ということはありえない。
逆の、プラスであってもそうです。
「人見知り」は協力者だった!?
人の前で話したり、何かをする時に多くの人が感じる緊張というフィーリングをさして、そう呼ばれるものです。
あがりも、他人がいてこそ起こり、ステージに立ったり、なにかの本番という時に現れ、パフォーマンスに影響するので、結構嫌われています。
プロフェッショナルな音楽家やスポーツマンでも「緊張しないで普段通りにやりたい」と、言うのを聞くことがあります。
そして、身近でそういう状態の人を見ると、安心させようと「緊張しないで」と、声をかけたりもします。
しかし、実はこの「あがり」という状態、実はカラダとココロが必要だからこそやっているということ、ご存知でしょうか?
これから本番!という時。
- 口の中がカラカラになるのは、パフォーマンスにそなえるため、筋肉などを興奮させるのに交感神経が働くため。
- 心臓の鼓動が早くなるのは、カラダのやりたいうごきができるように、酸素をカラダの隅々までたっぷり届けるため。
- また、トイレに行きたくなったりするのも、本番に備えてカラダ中の情報収集感度が、繊細になるため、いつもより気づくのが早いというだけのこと。
全てが、これからするパフォーマンスのための、サポートであり、準備なのです。
つまり、実際のカラダは協力する気マンマン!なのですよ。
たくさんのヒトの前に立つって、特別なこと。
普段通りのエネルギーでは、絶対にパフォーマンスはうまくいきませんん。たくさんのエネルギーが、絶対に必要な場なんです!
しかし、そのカラダの反応にびっくりして、普段通りじゃないことを、ヤバい!と、そのエネルギーを「抑えよう!なくそう!」と考えてしまう。
その、カラダの状態と考えが拮抗している状態こそが、パフォーマンスの邪魔となってしまう。これが「あがり」の正体です。
そのせっかく生産されたエネルギーを、自分の限界を超えるための動力として使っちゃえばいいだけなんです。
「普段通りに」「緊張しないで」「落ち着いて」という指示は、自分の役に立たない言葉だったわけです。
どうりで!でしょう?
もちろん、そのエネルギーを上手に使い、発揮するのにも、練習が必要です。
多くのヒトは「本番でも普段の通りにできるように」という考えでしか練習をしません。
それは、エネルギーを抑え込む練習となってしまい、だからこそ、本番でうまくいくのは8割、とかいう、賭け事のような話になってしまうわけですね。
周りも自分も、本番前は「緊張しないで」ではなく「そのエネルギー使っていこ〜!!」と声をかけるべきなのです。
もしかしたら、「人見知り・内気」にも、同じことがいえるのではないでしょうか?
人見知りで、口ごもってしまったり、うまくしゃべれない、顔が赤くなる、声が上ずる、汗が出る。。。
それを「問題」ではなく、「準備」なのだと考えるとしたら?
カラダが応援しようとしているのだとしたら?
そのエネルギーを嫌い、抑えるのではなく、使う、ということ、一度試してみるのはアリかもしれません。
人見知りかどうか、を選べることを知る
わたしもずっとそう思ってきました。
どんなに考えても、この壁は一生越せるわけがない!って。
記憶喪失にでもなるか、あるいは、もし全く誰も知っている人のいない世界にいったら、まっさらから始められて人見知りなしで生きられるのだろうか?
なんてバカなことも考えましたよ(笑
その頃の自分に「いやいや、それ、自分が選んだ人生のオプションなんやで!」と言っても、受け付けられないでしょうけれど。
だって、わざわざ選んだわけですからね。
それが必要な期間というのがありますし、それをいつ自分で手放すか、一生手放さないか、もまた決まっているものですから。
自分で選んできているから、他人がいくら何を言おうと、その時が来るまではダメなのです。
自分でさえ知りようがありませんが、手放すタイミングも決めています。
デヴァインとも呼ばれたりもします。
なので、無理する必要は全くないのですが、選べるもの、というのは、間違いのない事実。
ここでは、選ぶ、手放す、ということが、基本的にどんなことなのか、を、ただ、見直すことにしましょう。
手放すという体験
何か身の回りのものをひとつ、好きな方の手のひらの上に乗せてください。
ペンや、紙を小さく丸めたものがいいです。
自分の本来の姿勢を思い出してください。
尾骨から、両耳の間の位置まで、背骨がカーブを描いて伸び、常に柔軟にバランスをとりながら、自分の頭蓋骨を支えています。
その手のひらに乗せているものの、かすかな重み、感じますか?
やりたければ、上に向けている手のひらを「下に向ける」瞬間を、選びとってください。
そのまま手のひらをくるっとひっくり返します。
あなたが、手のひらの上のものを、握りしめているのでない限り、それは床に落ちたはずです。
こんなシンプルなうごきで、その結果として、手放すということが起こります。
自分につけたレッテルをはがす
糊付きの付箋を用意してください。
自分のことを言い表すことばをいくつか「わたしは〜だ」と、心の中で考えてみましょう。
その言葉がひとつ思い浮かぶたびに、付箋を一枚とり、自分のカラダの好きなところに貼り付けます。
付箋に何か書く必要はありません。
1枚だけでもいいし、何枚になっても構いません。
思いついた言葉と同じ数だけ貼っていきます。
貼り終わったら、ちょっとそれらを眺めてみましょう。
ここで、自分の本来のバランスをジャマしない姿勢を思い出しましょう。
尾骨から、両耳の間の位置まで、背骨がカーブを描いて伸び、常に柔軟にバランスをとりながら、自分の頭蓋骨を支えています。
そうしたら、今度は貼った付箋をはがしていきます。
1枚ずつ。
全部はがしてもいいし、残しても構いません。
貼る、貼らない、どちらも好きな方を、自分の意思で選ぶことができます。
人見知り解消のためにできること
これもわたしの先生がよく言うことなんですが
「目黒駅に行きたいと思った時、どうする?」
一生懸命、お隣の「恵比寿駅に行かないように!」「五反田駅に行かないように!」と考えて行動していても、一生目黒駅には着けません!!!
これ、当たり前のことなんですが、よくよく考えると結構いろんなところでこのやり方、採用してしまっているんですよね。
あなたは「人見知りを克服したい」のではないはずなんです。
それは、手段でしかなく、それで得られるなにか、が本当の目的地なんです。
本当は何駅に行きたいのでしょう?
それを考えてみることはとても大切です。
ちなみにこの思考の迷子を、別名「ピンクのゾウ」とも言います。
苦手をやめる
本当に苦手なことって、やらなくていいんです。
もう一度いいますよ。
そう、やらなくていいんです!
苦手、と言いあらわされるものには、いろんなものが混在しています。
- 本当にやりたくないけど、やっているせいで、苦手と感じる。
- やりたいけれど、やり方、攻略法がわからないので、苦手と感じる。
- やりたいけれど、自分のペースに合ってないので、苦手と感じる。
苦手にも、実は2種類あるということですね。
「本当にやりたいこと」と「本当はやりたくないこと」
本当にやりたいこと、に関しては「適したやり方を知らない」だけということ!
これに「苦手」という言葉をあてるのは適切ではありません。
本当にやりたくないこと、に関してはやらないこと!を選びましょう。
「本当に」というのはポイントで、無意識下でどうなのかは、確かにちょっとわかりづらいです。
しかし、丁寧に自分に意見を聞いてあげれば、わかります。大切な自分自身のことですから。
きちんと分別することが大事なんです。
やりたくないから、とやらなかったことはどうなるかって?
それは、それをやりたい人、得意な人が必ずいるので、その人たちにまかせてしまえばいいのです。
あるいはよくよく考えたら、全くやる必要のないことだったということもありえます。
「やらないわけにはいかないこと」だったとしたら?
この、やりたいこと、やりたくないこと、の分別をしようと思った時に出てくるのが
「でも、やらないわけにはいかない」という言葉
いやいや。実は「やらないわけにはいかないこと」というのは、この世に存在しないのです。
なんらかの、他のヒトには理解できない理由であっても「やる必要がある」と、あなたが判断したからこそ、カラダがうごいてやっています。
そこに、無意識下であっても、コミットし、Goを出した自分が必ずいます。
それなのに、「コミットしてない」と、思い込んでいるので「やらないわけにはいかない」という言葉になって現れます。
「やらないわけにはいかない」と言う時、実は、無意識下で、コミットした自分を、無視したり、責めたりしているのです。
この、自分の中の葛藤が、イライラ、モヤモヤ、ストレスの元になります。
自分の意思で選択していない、と思っていると、後悔も、また生まれやすくなります。
怖れのエネルギー
自分が居たくない場所で、やりたくないことをやっていると、もちろんうまくいきません!
すると、どうしても自分の能力を疑うようになります。
「仕事ができないのかも?、人見知りのせいかも?、自分は人間としてダメなヤツなのかも?」なんてね。
限界にチャレンジする、不可能にチャレンジする、というのは素晴らしいことです。
しかし、自分を追い込む、というやり方は、怖れのエネルギーを使うもの。
効果はでますが、必ず消耗してしまいます!
自分が殻を破れた感じがしたり、ほんとうに成功が伴ったりするし、世界が変わるし、自分が変われたことに嬉しくなるし。
でも、その時に、自分のカラダとココロに、よーく訪ねてくださいね。
体調がよくなかったり、なにかトラブルがあったり、疲れたと感じることや、それを今後も続けていくと考えた時に、なにか少しでもモヤっとすることがあるとしたら。
それは、怖れのエネルギーを使った行動による、カラダとココロへの影響かもしれません。
嬉しい、ワクワクする、楽しい、そういうエネルギーを使うと、その変化はもっとラクに起こるもの(怠けていても、という意味ではありません)。
そして、得られる結果が、いい意味で期待を裏切るものとなることが多いのもこちらなのです。
自分がやりたいことをクリアにする
自分が本当にたどり着きたい駅はどこなのか?
常に、そこに立ち返ると、さまざまな自分に必要のないもの、がわかってきます。
実は、やりたくないものなのに「これは自分がやりたいものなのだ」と信じ込んで疑わないということって、あるんですよ。
小さい頃に、それをやって褒められた。
それは実は好きじゃないのに、褒められることが嬉しいので、やり続けていた、とかね。
自分が、素晴らしい!と思ったヒトや、世の中の価値観を取り入れてしまい、その人たちにとっての理想を、自分の理想として、頑張ってしまう、とかね。
たとえば、世間一般では、たくさん友達がいる、とか、初対面でもすぐ打ち解けて誰とでも仲良くなれる、社交的とかって、「いいこと」ですよね。
フェイスブックでも、友達が多い、って、なんらかの価値を感じさせるものです。
つい、そういった、無意識に「いいこと」と世間でみなされていることって、それを正しい、その方が好かれる、その方が人として素晴らしい、などとして無意識に目指してしまったりするんです。
そういう、周りや世間がいいよねと言っていることではなく、自分が快適なこと、自分が嬉しいこと、自分が楽しいこと。
そこに、フォーカスしていきましょう。
焚き火の横で、熱い!火を消さねば!とやっきになるのではなく、焚き火から離れるという方法もあるのです。
そのために、自分のたどり着きたい先をクリアにすることが本当に大切。
あなたが行きたいと思うところならば、どこに向かおうと自由です。
小さな小さなステップにわける
人見知り・内気を解消しようとして、よく提案されていること、や、自分で考えついたこと、を試す時。
つい、大胆な一歩をふみだしてうまくいかず、しゅるる〜と前よりも自信がなくなってしまうということがあります。
それは、自分にとってちょっと変化が大きすぎたということ。
つい、提案されたものをそのままやってしまいがちですが、本当に気付いたら超えてた!くらいの小さなステップに分けるべきなのです。
大きな変化、というのはエネルギーがいるもの。
そして、変化できたとしても、馴染みがないので、また反動で元に戻ってしまいやすい、ということもあります。
山に登る時も、まっすぐではなく、少しずつ気圧の変化に、自分を慣らしていきますよね。
人間は、カラダもココロも、急激な変化は苦手なのです。
ダイエットでも、リバウンドしてしまうのは、大きな変化にカラダとココロがついていけないからです。
たとえば、うまく人と話せないので、飲み会は苦手、でも、なにか行きたい理由があったとしましょう。
そこに行くまでの小さな一歩を、どんなに小さくても、自分を褒めます!
「行こうと決めただけ」でも一歩には変わりはありません。
その、一歩を進んだ自分をねぎらい、褒めてあげてください。
「行く」という返事のラインを送っただけ、それでも一歩です。
一つずつ、「よくやったー自分!」「よくできたね〜自分!」と、その変化の選択に、祝福してあげてください。
自分をほんとうに繊細な、怯えやすいちいさな生き物のように、扱ってあげてください。
知らないこと、やったことないこと、前に嫌な思いをしたことって、どれも怖いんです。
どん!って背中を押したりしないで、歩きやすいよう、足元をならしてあげ、手をとって、光を当て、一緒に自分と、進んであげてください。
注意したいのは、自分の行動、考えについてのものにすること。
たとえば、自分の連絡に返事をもらう、とか、楽しかったと相手に感じてもらう、などはステップになりません。
他人の意思次第で、実行できないもの、それはステップとして役に立たないのです。
自分でコントロールできるものだけにしてくださいね。
自分らしい姿勢を味方にする
姿勢といっても、それは”気をつけ”のように一定の型に止まる、うごきのないものではありません。
わたしたちは、絶え間ないハートの鼓動とともに、呼吸でも動き続けています。
そして、とても小さな重力の力と拮抗して、構造的にバランスをとり、また、周りの人や環境に反応して、魂や精神といったものもバランスを取り続けているのです。
そんな躍動的な存在そのままでいることが、そのままの、自分らしい姿勢です。
考え方をかえて、新しい行動をとろう、という、した時に、この自分らしい姿勢で、考えたり、うごいたりすることが、やろうとしていることの、おおきなサポートとなります。
たとえば、誘われたイベントに行こうかどうか、自分の人見知りが気になって、迷った時。
自分の背骨が尾骨から、頭蓋骨の下まで、柔軟にバランスを取り続けながら、その上に頭をふんわりと乗せていることを思い出します。
そうしながら、自分はそれに行きたいかどうか、を考えるのです。
この、おまじないのようなものに、どんな効果があるのか?
不思議に思われるでしょう。
なにか気がかりなことがある時、ヒトの意識やエネルギーは、少し、緊張をともないます。
気持ちがそんな状態の時は、カラダでも、まるで、つのが何かに触れたカタツムリと同じように、緊張を伴う反応が起こります。
それは、自分では感知できないレベルのうごき、何ミリ、とも測れないくらい、とてもとても繊細なうごきです。
ほとんど無意識で行われる反射のようなものです。
その状態のカラダとココロのまま、物事を考えよう、なにか動きを始めよう、とすると、その緊張にも似た状態が、カラダとココロの自由さをちょっとだけ、邪魔してしまいます。
そんな状態のカラダとココロを、ニュートラルに戻す働きをするのが、自分らしい姿勢の作り方なのですね。
とても繊細な動きなので、考えるだけでも反応する、その程度の繊細な、ごくごくわずかな動きでも充分。
脊椎の上で頭蓋骨がバランスを取り続けていることを考える、というのは、一番基本的な考え方とやりかたになります。
しかし、人と状況によっては、もっと違う考えの方が効果を発揮する、という場合もあります。
それは、お一人ずつ状況別に、丁寧に見ていかないとわからないものなので、この考え方もそのうちブログでできる限り、書いていきますね。
これは、100年ほど前、F.Mアレクサンダーという人が発見した、人のカラダがどんな状態の時に、そのパフォーマンス能力を発揮するのか、という人間の基本的なしくみ。
そのしくみをジャマしない、というカラダとココロへの働きかけ方は、F.M氏の弟子たちによって、さまざまなアプローチが試されています。
実際に、多くの音楽家や俳優、ダンサーやスポーツマン、大学などでも取り入れられ、表現力のアップや効率的な動き、というまさにパフォーマンスアップに役立つものとして、使われています。
ヒトのパフォーマンス、と言っても、ただ、動きだけでなく、考えたり、読んだり、見たり、という一般的にあまりうごきと判断されないものにも、影響します。
ま、すべては人のうごき、なので、当たり前なのですけれど。
そしてこれは、プロフェッショナルな人たちだけが使うもの、なんて思わないでくださいね。
アーティスティックな活動に限らず、こうやって普段の生活にも、自分らしい姿勢をつかっていくことができます。
人が標準装備している役に立つ仕組みなんですから。使わなかったらもったいないです!
自分に、ここにいていい、と許可を出す
たとえばどこかのヒトの集まるところに出かけ、なんだかうまく話せなくて、会話が途切れてしまった、あるいは大勢の中で、話す人がいなくてポツンとひとり取り残されてしまったり。
自分が今いる場所に、来るべきじゃなかった、と思ったり、いろいろと頑張ろうとしたり、帰りたい気持ちになったり。
そんな時は、自分らしい姿勢に立ち戻ってみて、そこに居たいかどうか、を自分に尋ねてみましょう。
そして、そこに居なくていい、と決めたなら、再び自分らしい姿勢に立ち戻り、席を立ちその場を離れましょう。
もし、それでもここにまだ居たいのだと思ったら、自分らしい姿勢に立ち戻って、自分にこう声をかけます。
「自分はここに居ていい」と。
誰がなんと言おうと、自分が居たいと思ってそれを選ぶと決めたのなら、あなたはそこに居ていいのです。
人との会話を楽しむばかりでなく、その空間や音を楽しむ瞬間があってもよくはありませんか?」
音楽のフレーズだって、演奏しっぱなしということはありません。
休符や長い小節での休みがあってこそ、メロディもハーモニーも活きますよね。
ここに居てもいいのかな、居ない方がいい、という気持ちになってしまうと、ココロだけでなく、カラダもどこかしら緊張してしまうもの。
その見えない緊張をほぐすのに、自分が今いる場所に居ていいよ、居よう!と許可をハッキリと出して選び取る。
それは、カラダとココロにとって、見えない部分で、安心を感じることにつながります。
人見知りが克服できなくて落ち込んだ時のために
克服しなくてもいい、と言っても、そんなにすぐにそれを自分にOKだせなかったり、また、思うようにいかなくて困ることも、残念ながら必ずおきます。
その時、見るべき方向は、自分が目指す方向です。
もし、何かがうまくいかなかった、と感じたとしたら。
それはただ、次にとる方法の参考にするための、データが得られた、という意味でしかありません。
失敗、と名前をつけて諦めたり、がっかりする必要のないものです。
そして、誰とも繋がりたくない、というのでももちろん構わないんですよ。
人は、自分を幸せにするために、生きているのですから。
自分を一番大切にしてあげてください。いつでも、どこでも、どんな時でも。
がっかりするのは、相手の反応に対してのことも多いでしょう。
相手の反応というのは、本当に気になるものだし、こちらを一喜一憂させるものです。
しかし、相手がどういう反応を返すかは、相手の自由で、こちらのコントロール外の出来事、コントロール不可能な物事。
その不可能は、太陽を西から登らせるのと、同じレベルでの不可能です。
そこはいくらチャレンジしても、結果は得られないところ、というのを理解しておきましょう。
そこでココロに無理をさせると、カラダにも支障がでます。
カラダとココロは本当に密接に関係しあい、とんでもないところに影響が出たりします。
がむしゃらに頑張る、というやり方で、わたしたちはずいぶん、ストレスフルに生きてきました。
自分を置いてきぼりにして「頑張り」で進む世界から、そろそろ、進化することにしませんか。
まとめ
ここまで、人見知りを克服せずに解消する方法について、お話してきました。
1.人見知りで良かったこと、なにかあったかどうかを考えてみる。
困っていながらも、実は大きな目で見ると、こんなことの役に立ってた!という、驚愕の事実が見つかることがあります。
そこがわかったら、あとは自分で選べばいいことが、自然とわかってきます。
2.人見知り、もしかしたら協力しようとしてくれてるのかもよ?
一度、悪いもの、ジャマするもの、というメガネを外してみて、もし、協力してくれてるのだとしたら?と考えてみる。
自分のなかで、何かが変わることがあるかもしれない。
3.手放すってどんなことかを見直してみる。
手放す、ということを、簡単なもので体験してみる。
4.自分が苦手なこと、はやめる。
本当に自分が嫌いだったり、やる必要のないこと、は、やらないという選択をする。
5.自分がやりたいことをクリアにする。
自分の目指す方向をハッキリさせる。
そうすることで、結果的に焚き火から遠ざかることができる。
6.目指す方向に行くには、その行程を、小さなステップに分ける。
笑っちゃうくらい小さなステップにして、それを越えていく。
ひとつひとつ、クリアできたらそれをきちんとねぎらい、自分をほめる。
7.自分らしい姿勢を味方につける。
自分の脊椎が、本来の長さと、カーブと、バランスを取り続けるうごきを持ちながら、自分の頭蓋骨を支え、そのバランスをも取り続けている。
そう考えるだけでカラダとココロに起きる、非常に微細なうごきの変化。
それは、いつでもどこでも、何をしながらでも自分が選ぶだけで使える、カラダとココロのパフォーマンス能力を発揮する大切な基礎となります。
人見知り、という、自分が選び取った資質を、嫌うことなく、役立つものとして付き合う方法を、このほかにもどんどん見つけられますように。
それでは、お読みいただきありがとうございました。