世界を変える散歩の始め方

世界を変えるちいさな始めの一歩

雨の庭で、足元の草の中をなにかがスルリと動いた。

庭でよく会うカナヘビのうちの一匹だ。
元気そうな姿に安心しながらふと考える。

カナヘビは雨の中を出歩くのがイヤだと思ったりするのだろうか?たぶん学者でもそれを知るすべはないだろう。

雨が当たればそれを避けるとか、そもそも体温が上がらないのであまり動けないとかはあるだろうが、たぶんそういった「感じて思ったこと」で行動が左右されることはないだろう。

なぜって、もしそれがイヤだと思うようならば、きっとカナヘビは自分用の傘かあるいはカッパを作っているはずだからだ。

感じて思ったことというのは、雨で濡れるから嫌!などの雨に対するジャッジメントやレッテル貼りである。

冗談ではない、本気でそう思う。

人は、それがイヤだと思うから改善しようと考え、何かを作り出す。
雨に濡れたくない。長距離を歩きたくない。階段を登りたくない。時間をかけたくないetc...

そして様々なものが工夫され、作られたからこそ、文明が発達してきたわけだ。つまり、不満を持つのは人間の証でもあるといえる。

悪をやっつける時代は終わった

差別や争いや破壊、私たちはそういったもの「悪」とみなして、いけないことだ、無くそう、改めようと努力してきた。

けれど、それがうまくいっているかというと、世界中を見てももどかしくなることばかり。
多くの人が声をあげて平和を願い誓うのをみて、共感し、決して繰り返さないと誓うのだけれど、私たちの世界から「悪」はなくならない。

その理由のひとつは、そういった「悪」と自分たちは無縁だと無意識に思ってしまうところにある。

悪い人たちと平和を願う善良な人たち、という二種類の人種で世界が構成されているという誤認。
そして正しい自分たちと、悪いとジャッジした人たちの「違うように見える部分」を目安にしてそれを判別しようとし、悲劇が生まれる。

見慣れない文化やしきたり、住んでいる所や生まれの違いや外見というわかりやすい差を善悪と結びつけ、そのような人たちを隔離したり、根絶やしにしてしまえばこの問題は解決するのだという妄想を抱いたりする。

不安で安心したいが故に、すぐに効果の見える解決策が欲しくて、思い込みを判断基準や情報としてしまう、こんな考え方こそが、私たちの願いをはばむものなのかもしれない。

今までとは違うアプローチを探すべきだとしたら、一旦その二元論を離れて、差別や争いや破壊といったネガティブなエネルギーはどこから来るのか?を考えてみる。

たぶんそれは、全ての人の中に存在しているはずのものだ。
光あっての影と同じく、悪は私たちと無縁ではない。持っていることが自然なのだ。

ブラジルの小さな蝶の羽ばたきがテキサスの竜巻となるメタファーどおり、誰もが自分の中に蝶を住まわせていると言える。

人は本来悪であると言いたいわけでは決してない。
その要素もあることが当然で自然な人の形なのだ。

それを、そんなものは持っていないと考えたり、その部分だけを切り離して無くそうと考えたりするからこそ、うまくいかないのである。

わたしたちひとりひとりが、一番身近な「自分自身」に対して、いったいどんな振る舞いをしているか?
見直してみたことがあるだろうか?

私たちはなぜ差別や争いや破壊をやめられないのだろう?
悪の組織や陰謀や、金儲けを企む利己的な人たちがいるから、そしてその人たちが力と金を持っているからある程度は仕方がないのだ、と考えることを私たちは選んできたような気がする。

これだけ世界中の人が嘆いても願ってもびくともしない、そう見えるのは、実は私たちの考え方や取り組み方にボタンの掛け違いがあるのではないだろうか?

そもそもいったいどこに「悪」を生み出す種があるのだろう?

私の先生がしていた「皿洗い」の話が思い出される。

毎日の生活の中でご飯を食べ食器を洗う時、多くの人が「食器なんか洗いたくないのに」と言いながら食器を洗う。
まあ今は食洗機を購入している人も多いだろうけれど。

そう呟きながら皿を洗うことは、実はほんのささいな、しかし確実な自分への暴力なのだと彼は言っていた。

人間は自分がやると決めたことしかできないのが当たり前である。
何かをするには意思をもって体を動かす必要があるからだ。

子供を見ればそれは納得で、OKと思うまで頑として動かないということを、子供時代に誰もがやってきたはずなのだ。
しかし、大人はやりたくないことをやるという芸当をこなしてしまう。

大抵が、「やりたくないこと」なのだけれど、他にやる人がいない、やらないと進まない、やらないと怒られる、などさまざまな大人の事情で「しかたのないこと」として「やること」を決める。

ここで、「やる」と決めた自分が存在するからこそ、皿を洗うという行動をとっているのは間違いない。
しかし「やりたくないのに」と言いながらそれをする。あたかも誰かにやらされていて抗えない被害者のよう。つまりやると言った責任をとる人を自分の中から消しさってしまうのだ。

「やりたくないのに」と言ってしまうことは、「やる」と決めた自分をなじり、皿を洗う間中お前は最悪だと罵り続けることと同じ。

この、何気ないよくある日常のこんな自分自身への言葉が、小さな小さないさかいの種となる。

こんな気づかないほどの怒りや不満のエネルギーは、このあとどうなるのだろうか?
おそらく無意識のまま、誰かや何かに向けてこのエネルギーをのせた言葉や行為が発せられ、それはまた確実に誰かが受け取るはず。

受け取った誰かが、またどこかで無意識に誰かに送り出し、因果関係の繰り返しを続けながらそれは人と人の間を巡っていき、やがて、その溜め込まれ、膨れ上がったエネルギーは、人々が恐れおののくような大きさになり、果ては戦争と呼ばれるものにさえなりうるのだ。

悪の仕業や陰謀、運命とか、誰かや何かのせいだと考えているうちは、実は私たちひとりひとりが意図せず、望まない方へ一滴の水を注ぎ続けるだけということだ。

私たちひとりひとりの羽ばたきが今の世界に竜巻を創るのだとしたら?そして竜巻の起きない世界を願うのなら。

日々自分自身にどんな言葉をかけ、どう自分を扱うのかを考える必要がある。
今の世界を変えたいと思うのなら、どう羽ばたくか?をひとりひとりが変える必要がある。
世界中のひとりひとりがもれなく、である。

世界を変える一歩は、自分自身に対する振る舞いを変えるところから始まる。

つまり皿洗い!

皿洗いをやるのかやらないのか?どうやるのか?やめるのか?それを誰でもない、自分のために考え、どうするかを選び取る。
その一歩から始める以外に世界を変える方法はない。

たぶんこんなに具体的に、世界を変えるために明日からできることが書いてあるケースも珍しいのではと思う。

そしてそれが皿洗いについてだなんて、なんて地味でつまらないんだろうと思うかもしれない。

修行をしたり、宇宙と繋がったり、魔法を使ったりするようなやり方の方が、ちょっと素敵だしやりがいもあるし、やった感もあるのは確か。

でも、誰に習わなくても、誰かに託さなくても、お金をかけなくても、すでに自分でできる方法を手にしていることを、その力が自分に備わっている音を認めてほしい。

自分にしかできない魔法があるのだということ、すぐにできる魔法を持っているのだということ。

エベレストに登るのだって、まず自分の家のドアを開けなければ始まらない。

そのドアを開けるのは、自分だけ。
その権利も、意思も、実行も、全てが。

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